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☆ナチュラルライフを楽しむために、自宅のキッチンなどでできる手仕事をご紹介する講座を開催しています。
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今日は長男と一緒に高校入試説明会に行く。
生徒会からの発表があって、生徒の雰囲気がよくわかり、わざわざ行った甲斐があった。 ようやく私も受験生の母は何をすればいいのか?が見えてきて、気が重かったものが少しはましになりつつある。 要するに、あきらめるしかない(^^;) どこの高校に行きたいのか、将来何をしたいのか、そのために高校時代にはどんなことがしたいのか。そういうことは、もはやこの齢になったら自分で考えてもらうしかない。 自分で考えるという作業を促すための、会話をすることくらいだ、親の役目は。 「こんなやり方があるよ」「こうするとこうなる(ことが多い)よ」くらいのサジェスチョンはできても、「こうしなさい」はもう通用しない。 アメやムチでも動かせる年齢ではない。 見てるとあまりにタルいからイライラするのだけど。 (そして、余計なことを言ってしまうのだけど) そして我が家の経済状況でやってあげられることと、私の自分のことで精一杯の日常生活状況で、やれることは「ここまで」というのは、もうほんとにジタバタしてどうにかなるものでもない、自覚するしかない。。。 私自身が。 子どもは親が持っているものを当たり前のものとして受け取っていく。 親は自分が持てる以上のものを、子どもには与えたいと願うけど、自分以上のものって、結局無理なのかも、と思う。 どんな世界を見ているのか、それを受け取ってどんな風に感じるのか。 子どもに良い教育を施したい(そして立派な大人になって欲しい)と思ったら、やっぱり自分がそこを磨いていくしかない、と、子どもが思春期を迎え手を離れる日も近い最近は、特にしみじみ思うのだ。 仕方ないよね(できないこと、やってあげられないことなんていくらでもあるさ)、と言う声のトーンが、3男に対しては上向きなのに対して、長男に対しては下向きになってしまうのは、まだまだ修行中の身を自覚せざるを得ない… ママイキのひろっしゅコーチのように「お母さんの子どもでよかったね」と言える母には、まだなれてないみたい。 「自分で選ぶ」という体験をする、そういう受験を経験させてあげたいな、と思う。
わらだやしき自然教室にリーダーとして参加した時に強く思ったことなのだが、「体験する」、それを「表現する」、その両輪で学びは深まるのではないか、と思う。
体験を自分なりの表現に変える過程で、「自分はどう感じたか」主観を大切にできるし(それは自分を大切にすること)、それを意識化する言語化する、ということがすごく大切。 また、人とそれを共有する過程で、人は思いがけないことを感じたり見たりしているという「客観」の視点も持つことができるし、「人と自分は違う」ということを、理屈ではなく体で理解できると思う。”感じること”に、「正しい」も「正しくない」もない、ということにも気がつく。 自分とは違う意見を聞くことで、ものの見方や世界観が広がり、一人でそれを行う以上の発見を得られる。 そしてそのように「表現」(output)の過程で得た気づきを、次の「体験」(input)に活かす。フィードバックする。 それこそが「学習」がどれだけ深まるか、のキモの部分ではないだろうか。 違う目で体験の現場を眺めることができるようになり、世界が違って見える。 「世界が違って見えるようになる」ことが学ぶということの本質だ、と、言っていたのはだれだったろうか。(多くの人が言っているかも) 学校の総合学習の授業などを見ていると、その「表現」の部分が弱いと感じることが多い。 「体験」はしても、フィードバックが少ないから、学びが浅い、と。 「体験」とは、個人的なもの。 「表現」は、それを「人と共有する」、「共有しようとする」ことそのもの…なのかもしれない。 教育者は、その両輪をいかに作ってあげるか、だし、その過程に寄り添えるか、その人のペースでアウトプットが起こるのを待つ、どれだけ伴走するか、その人のペースに合わせて・・・だという気がしている。 それがサークルとして循環がスムーズに行くようになれば、放っておいても自分で学び、成長していくことができる。 それこそが・・・複数の人間の間でそれが行われる時・・・「チームビルディング」なのではないか? 先週ファシリテーション講座に参加したのだが、アキラさんが言ってた「答えは自分が知っている」だけではダメ、「それを表現してなんぼ」とはこのことか、と思う。 今、市の事業で行っている新川のプレーパークに関わっていて、まさに「チームビルディング」をしようとしていたことに気がつき、それにやりがいと楽しさを感じている自分に合点がいった。 今までになく、あまりに老若男女様々で、考え方もてんでバラバラな、大変なチームだが、今までになく、おもしろさも感じている。 ファシリテーターとは・・・ (チームの成長過程が子どもの成長過程と全く同じで)「幼稚園や保育園の先生はファシリテーターだったんだ」と参加者の一人が言っていたが、子どもの育ちに寄り添う人の態度と同じ。 相手の話を聞き、受け入れ、ニュートラルな状態で接し、自己開示して、安心して「表現」できる空気を作る。 (こう書くとカウンセラーとも同じ?対個人か、集団か、という違い? 表現が出やすいように「そそのかす」ところが違う部分かな? ・・・今勉強中) ただし、現状、今の幼稚園・保育園の先生は、ファシリテーターというより「管理者」になっていないか?集団をどう「コントロールするか」ということに気をとられてしまっているというか、そうならざるを得ないのでは?という気がする。 そして、世の多くの大人も、子どもをどう「管理」するか、が「躾」で、大人のするべきこと、という風に考えているのではないか、という気がする。 または子どもの「安全」をたてに、「管理」したがる。 自分の世界を変えることが怖いのだろうか。手のうちからはみ出ることを嫌う。 そこを切り崩すには、どうしたらいいのだろう。 「怖がらなくていいから、安心して相手に委ねてみて」と、握りしめている手を離しても大丈夫なんだ、という体験をしてもらうこと、だろうか。 プレーパークは、子どもと向き合う場でもあるが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に労力を割いて、その態度を場に関わる大人同士で共有することや、外の大人に向けて理解してもらうよう働きかけることが大事だし、そこにどれだけ粘り強くなれるか自分が試されると、同僚のプレーリーダーと話していて改めて思った。
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