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性差は性的指向より大きい。
女性の性的傾向は概して関係の親密さとの結びつきが強い。女性にとってセックスの重要な目的は、親密さなのだ。喜ばしいセックスの最高の文脈(コンテクスト)は、親しい関係にある。これは男性にはゲイであるかストレートであるかを問わず、あまりあてはまらない。 男性は性的趣向に関わらず、しばしばポルノを買う。女性はレズビアンでもストレートでもあまりポルノを買わない。知らない人間の性器を載せた雑誌を、8ドル払って買う女性はほとんどいない。雑誌の写真と親しい関係を持つことはできないのだ。 攻撃性…レイプはほぼ男性だけが犯す犯罪で、その加害者にはストレートの男性(被害者は女性)もゲイの男性(被害者は男性)もいる。女性は性的趣向に関わらず、めったにレイプの加害者にはならない。 世界中で、男性は女性と比べて、婚姻状態、性的指向、当人が「そうした行為」に積極的であるないに関わらず、より多くの数の性的パートナーを求めている。(男性25%、女性5%程) 男の子はリスクの高い行動をとる傾向がある。 特に回りに別の男の子がいるときのほうが、危険なことや愚かなことをする傾向が大きい。 男の子は総じて自分の能力を過大評価しがち。女の子は過小評価する傾向がある。 女の子は自分の能力に対する評価をもっとあげるために正しい種類のリスクをとるように後押しする必要がある。 女性と男性の給与の差は職種の違いを差し引いても、差がある。 それはある調査によると、男性の方が増額を求めていたのに対し、女性の方では要求しなかった結果と見ることができる。 「支配するマウス」…のびのび探検できるできるような環境を与えたマウス。穴を掘ったり木の枝を飛び跳ねる。 「無力なマウス」…楽しい環境で遊ばせない、代わりに手でぎゅっとつかむ。1日に何度か。逃げ出せないことを学習させる。 それぞれのマウスを水でいっぱいの水槽に落とす。 「支配するマウス」はすぐ水槽の縁まで泳いでいき、逃げ出す。 「無力なマウス」は弱々しくもがくだけで、しばらくして沈んでしまう。人間が引き上げてやらなければ死んでしまう。 新しい環境を探索する経験を多く重ねていれば、自分の不安と向き合って克服し、新しい挑戦にも立ち向かうことができる。だがリスクをとって成功するという体験がなければ、いざという時に力を奮い起こせなくなる。 私たちの社会の女の子の育て方は、「学習された無力」を助長するものである。 男の子けんか…お互いに関わり合い、相手の様子を探るための方法であり、友情に向けての第一歩。 女の子の場合、めったにしない代わり、一度やったが最後、友情は終わる。 男の子が攻撃的な行動をとると、他の男の子たちからの評価が高まる。 若いオスの霊長類が他のオスとけんかをする機会を持たなければ、そのオスはおとなしく育つどころか、より暴力的なおとなになる。そうしたオスが、遊び半分で攻撃性を発揮しながら他のオスとつきあっていく方法を習わずにいると、怒りは内に封じ込められ、やがて爆発する。 若い男の子は暴力的な対立関係からスリルを得る。女の子は気分が悪くなる。 ストレスに対するホルモン反応の違い。男の子は、自律神経系である交感神経系のアドレナリンによって「スリル」を感じる、女の子は副交感神経系のアセチルコリン不快で胸がむかつく感覚を覚える。 数学において 女の子は大脳皮質を使い、男の子は海馬を使う。 女の子でも男の子でも、学習できる内容そのものに差はない。 だがそれを教えるうえで最良の方法は差がある。 同性のコミュニティーが子どもを社会化する。 歴史上のあらゆる文化で、社会科のプロセスは基本的に、同性だけのコミュニティーの役目だった。 親だけが責任を負うにはこの仕事は大きすぎる。これはコミュニティー全体がひきうけるべき仕事だ。 古いアフリカのことわざにもあるように「ひとりの子を育てるには、村全体が必要」なのだ。 男の子たちは切実な疑問を抱えている。「男であるとはどういうことか?」 だがこの社会の公的な組織、特に学校は、もうその疑問に答えようとはしない。そして商業主義が空白に入り込んでくる。 男であるとは、自分の力を他の人たちのために役立てることだ。 私の提案する解決策は、まず第一に女の子と男の子の発達の違いを認識すること。 第二に男女別々に教育やスポーツを行う機会を活用することだ。 共学校にはジェンダーの固定観念を強化する傾向があり、男女別の学校にはジェンダーの固定観念を打ち破る傾向がある。 女子校の女の子は共学校の女の子と比べて、コンピューター科学や物理といった教科をとることが多い。 男子校の男の子は、能力的にほぼ等しい共学校に通う男の子と比べて美術、音楽、外国語、文学を学ぶ例が二倍になる。 共学校より女子校の方が望まない妊娠の起こる割合がはるかに低い。共学校ではグループで一番人気のある男の子は一番人気のある女の子とつきあうということが起きている。女子校の方が性的な意思決定に関して自立性を保てる。 共学校の女の子たちの自己評価の高さは、「自分がきれいだと思うか」という質問の答と正比例している。 勉強やスポーツのでき不出来、親の職種、などに関わらず。 女子校の生徒にとって、外見は色々な要素の1つに過ぎない。 共学校の生徒たちが最も気にしているのは、誰の外見が一番か、誰が一番人気があるか、誰が一番スポーツが得意か、といたこと。 共学校における思春期の文化は、「学業の強い妨げになる」40年前のアメリカでのインタビューの結果。 成人期への移行。私たちの社会は他の何よりも、この領域で子どもたちの期待を裏切ってきた。この社会は子どもたちに、大人の女性、大人の男性になるのはどんなことかという指針をあたえてこなかった。 私たちのこれからの務めは、男性と女性の生来の違いを認めて育むだけの勇気と英知を持ち、同時にすべての子どもに等しい機会を与えられる、そんな社会を作り出すことなのだ。 ***** 以上 「ミクシィ」で「教育における男性性と女性性」という話題で盛り上がっていて、とくに売春について色々思うところがあったので、上の性の記述はおもしろく感じた。 非常に興味深い内容だったが、結論として男子校、女子校をすすめていることには、素直にうなずけない気持ちが残る。 理想的にいえば、もっといろんな学びの場が用意される、その中に男女別の多世代のコミュニティーもあるし、男性女性というだけでなく、自分の能力にあったカリキュラムを履修できるというのがいいと思う。 まあ、そんなことをいってると結局現状を変えられず、現実的ではないのかもしれないが。
by kourin-mama
| 2007-03-23 21:08
| 読書ノート
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