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2015.1.24
信濃ミツバチの会主催 福島の相馬高校放送部の高校生が作った演劇やドキュメンタリーの上映と、放送部顧問の先生のお話をうかがいました。 感想を言おうとしたら、涙が出てしまった。そんな予定じゃなかったのにw 福島という、震災と人災の渦中にあって、子どもたちは、たとえ表面上では元気に普通にしてても、思うところはたくさんあるんじゃないのかと思う。 子どもの方が、大人の欺瞞や嘘や虚勢…そういったものを鋭く感じ取っているのだと思うから。 でも、それを表現するすべにおいて、彼らは未熟だったり、気を使うのではないかと思う、大人が思っている以上に。 私は自分の妹が障害があったので、そういったシリアスなことを同級生などに伝える時には、気を使った憶えがある。「いかに深刻な口ぶりにならないようにするか」「同情を引いてると思われない態度を取るか」など。 ドキュメンタリーの映像を見ていて、ありありと思い出した、高校時代のことを。 思いのままに吐露してしまえば、涙が出たりしてしまうのはわかってるから、ものすごくブレーキかけてる感じとか。 福島での成人式の時に放射能のこととか「気にしてない」という若い子がほとんど、という報道があったけど、そんな風に聞いて「気にしてる」って言える雰囲気じゃないんじゃないかと思う。 ほんとに気にしてない人もたくさんいるだろうけど、「気にしないようにしてる」って意味で、しばりを受けていない人なんていないんじゃないだろうか? なんて重い現実を、子どもたちに負わせてしまったのだろうか、と思う。 「この先、結婚できるのか」「子どもを産んで大丈夫なのか」「福島に住んでいる、いた、というだけで差別されるのではないか」「ガンになってしまうのではないか」 まともに気にすれば、そういう疑問や不安に苛まれてしまう、そういう現実。 そんな中で、まっすぐに、自分の思いを表現している演劇や、同級生らを通して見つめているドキュメンタリーを作れた子たちは、すごいと思う。 それは、受け止めてくれる先生の存在があって初めて可能だったと思う。 当の相馬高校の中では上演していないし、学友で演劇を見た子は数えるほどしかいないだろう、ということだった。そして福島の県大会では全く評価されなかった(でも全国大会では受賞している)。そういうことが、まっすぐに表現することの難しさを物語っている。 私もまだまともに表出できていない…3.11の痛み。 声が詰まってしまったのは、そのせいだと、気づかされた。 私の場合は、どうしても「千葉と東北では被害の程度が全く違うから」という遠慮がついてまわるせいもある。 でも、自分なりのストーリーを語らなければ、傷は消化できないのかもしれない。 何度も語ることで、少しずつ、消化できるようになっていくのかもしれない。 渡部先生という存在があって、表現できた子たちは、それでもまだしも幸運だったのだと思う。(不幸の渦中ではあるけど) 彼女らが投げかけたもの、大人につきつけた疑問こそが、世の中を変える力になっていってくれるのではないかー そう願う。 というか、当事者が、怒り、変えようとしなければ、他に変えうるものなどないのではないか… 彼女たちの叫びは、絶望の中にあるかすかな希望のような気がする。 『今、伝えたいこと(仮)』 『J-one』紹介記事
by kourin-mama
| 2015-02-02 23:00
| 講演等のレポート
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