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斉藤 学 講談社
リブがフェミニズム運動へと発展する過程で、活動家の一部は同性の危機に介入する道を選んだ。・・・DV被害女性のためのシェルターや強姦救急センターの開設など こうしたことこそフェミニズムの最大の貢献なのであって、その基盤は大学での「女性学講座」やそれにからんださまざまな出版物などにあるのではない。 15歳・・・次の世代をつくる能力を備える。 15歳以前であれば、子供の成長に役立った「愛のミルク」「愛の世話焼き」も、15歳を越えた子どもに与えれば下痢を起こす。できれば一切やらない方がいいのだが、そうもいかないのが現代の社会である。15歳にとってのミルク、つまり教育費や小遣いは15歳以後の何年かの間、以前よりずっと多くなってしまう。 子どもへの世話焼きも、急にはストップできないので、もう大人になっている子どもに向かって、 「そろそろ起きなさい。学校遅れるわよ。」 などとやってしまう。 仕方がないから、極力少ない量のミルクに止めることにして、それを飲ませる際には「悪いことをしている」と、後ろめたい気分になるくらいでちょうどいいのである。 (中略) 一つ提案したいのは、子どもが15歳を越えた翌日の「お別れパーティー」である。 「今まで私たちの子どもでいてくれてありがとう。でも、これで親子の関係はおしまいね」 ・・このアダルト子どもを、一人前の大人の同居人として扱うのである。 子どもの役割から逃れる決め手は、恋である。 息子の場合、思春期のプレ段階(10〜12歳)で、すでに母性的ケアはうっとうしいものに変わりかけている。思春期前期(12〜15歳)には、自分とよく似た同性との親友との間に、ナルシシズムの延長のような深い愛着が生じ、これを通じて「男の子同盟軍」のようなものに編入されていく。そこには年上の男の子や成人からなるリーダーやサブリーダーがいて、強いものへの服従、「よそ者」を排除して縄張りを維持するための闘争といった「男らしさ」の基本用件が、叩き込まれる。 要するに男は放っておくと、自然に軍隊組織のようなものをつくってしまい、この中で異性との接近の仕方なども教育されるのである。近代の核家族では親子の絆が強すぎて、このへんの家族離れプロセスがうまくいかない息子というのが増えている。 女の子の場合・・・拒食・過食症とは、「子どもの役割から降りる」という人生課題からのサボタージュという意味を持っている 母と娘の関係は、それが同質のもの同士の密着した関係になりやすいからこそ、危ういものである。娘はいろいろな形で工夫をして、そうした密着関係から離れ、自分の世界をつくっていく。そのプロセスの中で往々にして自分の愛した母、自分を愛してくれた母というものはスリカエられて「継母」になる。 かつて娘が愛したあの母は、もう死んだのだ。実母からスリカエられた継母は、娘を抑圧し、拘束し、自分の価値観を押し付け、時には自分に嫉妬して殺そうとしたりする。そうした迫害をかろうじて逃れた娘はこの継母を徹底的に憎み、時には復讐し、殺す。 この「情緒的母殺し」が展開する中で、娘は自分のセクシュアリティを発展させていく。 というのも、やがて娘は自分の前に現れる白馬に乗った王子を夢想するからである。実はこの白馬に乗った王子というのは死んでしまった本当の母、自分を愛し、自分が愛したものに他ならない。実母から白馬に乗った王子への幻想の発展の中に、女性のセクシュアリティーの発展がある。 そういうわけで、白馬に乗った王子は家の中にいてはならない。それは母親そのままに止まっていてはならないし、父親がこれに変わってしまっても困る。 父親が王子になってしまう場合とは、父親が気の毒で弱々しくて同情と関心を引いてしまう場合である。病院に出たり入ったりしている父、理想家肌だが社会的能力を欠いた父、母親に迫害されいじめられている父。こうした父が娘の関心を引くとき、娘は外にいる王子を見失う。娘は残酷な母親を憎悪して父親に愛着し、これが彼女の異性関係を歪める。 丈夫な父親は年頃になった娘に捨てられ、汚がられ、うっとうしがられ、理解不能な「オジン」として遠ざけられる。これが父親の仕事である。 母親は、年頃になった娘に意地悪な継母のようなものとして捨てられ、情緒的に「殺される」のがよい。 これが娘が家を出、自分の世界を持ち、自分の大切な人を探すエネルギーをつくる。 ジェイン・スウィガード『バッド・マザーの神話』(斉藤学監訳、誠信書房) マザリングは元来母親に苦痛を強いるものである。子育ては、母親のすべてを奪い尽くす。時間も自由も与え尽くして、お返しの少しもない世界が子育てである。ルールのない小悪魔たちは、やってもやってもきりのない仕事へと母親を追い立てる。 母親になるということは、ぐっすり眠れる夜を失うことを意味する。世の亭主たちは、この苦行を「母の喜び」のように錯覚して、妻にだけ負担させ、申し訳ないとも感じていない。・・・ こんなことのすべてが、「喜び」であるはずがない。これは苦行である。疑いようもなく、マザリングは苦行を伴うものである。 「メッセージ」としての症状 症状とか逸脱行為(非行)とか呼ばれるものは、すべてメッセージとしての機能を持っている。痛みや痒身は、身体自己から自己に寄せられるメッセージである。精神障害の場合、このことはとくに重要であって、そこで症状と呼ばれるものの多くは、周囲の他者へのミュニケーションとしての意味を持っている。 主体が通常の言語活動では伝えられないと思い込んでいるもの、抑圧されて主体の無意識ないし前意識にしまい込まれたメッセージが症状として表現される。主体が意識している他者へのメッセージは「要求」であるし、半ば気づいているものなら「愁訴」である。全く気づいていない(ないし気づきたくない)メッセージは「症状」と呼ばれる。 したがって精神療法の仕事とは、主体の症状を要求に転換する過程ということができる。 家族に包まれることは恵みだが、家族の温もりに酔うのは危険である。 人は群れの中で、真の孤独を感じる。そしてその孤独の痛みが、他人との関係を大切にさせる。 家族の中で人は孤独を知り、他人を求める自己を知る。 以上、抜き書きメモ
by kourin-mama
| 2007-10-05 09:00
| 読書ノート
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